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カンボジアでの取り組み
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カンボジアの現状|活動概要

[プノンペンのゴミ捨て場に暮らす人々に対する物資支援事業]

アジアチャイルドサポートでは、1998年から現在まで、カンボジアの首都、プノンペンのゴミ捨て場「ステミンチャイ」に暮らす人々に対して、食料や衣類などの物資の支援を行っています。

[センソック地区教育支援事業]

ノンペンの中心地に王宮がある。その周辺に4万人以上の人々が暮らしているスラムがありました。不審火による大火で、スラムは焼け野原になり、多くの人々が着の身着のままで放り出されたのです。

スラム街の市街化計画により、住民が、荒れ果てた大地アンロンカガーンへ移住させられました。そこでの生活環境は劣悪で、棒を地面に突き刺しブルーシートを被せただけの小屋が延々と続いています。

アンロンカガーンと呼ばれるこの地域には何もありません。荒涼とした大地が広がっています。現在は、センソック地区と改称され、5万人近くの人々が暮らしています。

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貧しさと暴力が渦巻く危険な町、センソックには、子供達が勉強する学校もありませんでした。アジアチャイルドサポートはいち早く、センソック地区に駆けつけ、学校建設に着手しました

アジアの最貧国とされるカンボジアの首都プノンペンで、学校の整備も後回しにされたため、数千人いる子どものほとんどが学校に通えない状況でありましたが、沖縄の人々の小さな善意が集まり、2002年5月に3,000人もの子ども達が教育を受けることの出来る「沖縄学校」が建設、開校されました。

この学び舎が子ども達の希望の光になることは間違いありません。

[センソック地区命の泉(井戸建設)事業]

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カンボジア、プノンペンの郊外、センソック地区(プノンペン市の最貧困地域)での井戸建設事業は住民の皆さんに心から喜ばれていることが実感としてわかります。

この地域の住民は今日を生き延びるだけでも精一杯の人々が多く、窃盗事件や強盗などは日常的に起きています。拳銃を持った強盗が入ることも珍しいことではありません。

最初、足を運んだ時期には危なくて、危なくて住居地域を散策できる状態ではありませんでした。我々のような日本人がカメラをぶら下げて歩こうものなら引っ張り込まれてぶん殴られても可笑しくないのです。

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この地域に井戸が54基、完成いたしました。住民の皆さんが我々を信頼してくれているようです。

井戸を、1基、1基、確認の為にポンプを漕いで水を出して住民の皆さんに声をかけて「井戸はいかがですか。井戸が出来てどうですか。」などと確認を行いました。

人々は「本当に助かっています。」とニコニコと笑顔を見せてくれます。歩いていると「沖縄、ありがとう。ありがと。」と両手を合わせて拝むように私に挨拶をしてくれるのです。わざわざ、私を呼び止めて「沖縄の人たちがカンボジアの子供達に学校を作ってくれました。自分の子供には教育を受けて欲しいと思っていました。本当に有難う。」と言う30代のお母さんもいました。

井戸建設事業が始まってから、住民の皆さんとの精神的な距離が少し縮まったような気がいたします。

[センソック地区学校ゲート建設事業]

3月21日に学校を取り囲む塀、名称「ユイマールゲート」の完成式典が、カンボジアの沖縄学校(正式名称センソック小学校)で行われました。

昨年の11月から着工して、ようやく2月末に完成いたしました。周囲520メートル高さ180センチ、門の高さ6メートル、上から30センチメートルは化粧ブロックの柵があります。この塀の形は素晴らしいと言うことで、これから後のプノンペンの学校の塀は沖縄学校(センソック小学校)が見本になるのです。

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これまでは学校を囲う塀がないために、大人達が入ってきて、日常的に机や黒板、ドア、窓、教室にある備品などが盗難にあったり、子供達が勉強している時に酔っ払いが入ってきたことも何度もあありました。廊下に大人達がかってに来て寝転んだり、ポンプを使って水を汲んでいく。子供達を怒鳴る大人や、ひどい時には拳銃を持った強盗が入ったこともありましたが、塀が出来てからは、犯罪率が10分の1まで減少しました。

校長先生はこれでやっと、子供達が安心して勉強できるようになったと、笑顔で私たちに語っていました。そして同校にコピー機と、ノート3000冊、鉛筆3000本もを贈呈してきました。

式典には、プノンペン副市長、カンボジア政府教育関係者、小川日本国大使、生徒、住民の皆さんなど5000名近くが参列して式典は行われました。

[衣類支援事業]

「古着を集めるのは止めて下さい。」と訴えています。日本においては古着などの物資を集めるのは簡単です。しかし、送ることが難しい。カンボジアやモンゴルに衣類を送りました。その費用は莫大なものです。20フィートコンテナ一本でモンゴルが約150万円、カンボジアが約100万円もの大金がかかったのです。その費用を捻出するのは並大抵のことではありません。

そのため、現在はやっておりません。

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※写真(カンボジアに届いたコンテナ。モンゴルに送るために衣類を集めたのですがTシャツなどの夏物衣類がかなりあり、寒いモンゴルではあまり必要とされないためにカンボジアに送りました)

[地雷被害者 障害者支援事業]

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障害者の皆さんの支援を行っています。生まれつきに障害を持った方や地雷の被害で手足を失った人々に対して農業関係の事業を現地のカンボジア障害者支援センターの皆さんと協力し行っています。

工業用の水道施設、大型発電機の設置、牛などの家畜の支援などです。

本格的な支援センターの建物が完成しました。二階建ての40坪程度の建物で10名前後の障害者の皆さんが、この施設で暮らしながら農業を行っています。この施設の名前を「沖縄ファーム」と命名しました。

[地雷被害者児童教育支援事業]

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2人の少女は私の顔を見ると満面の笑顔で迎えてくれました。「元気だった?」と日本語で話し掛けても何となく解かるようでウナズキながら言葉を発してきます。

プノンペンから車で6時間ぐらいかかる村に暮らす2人に別々の場所で「今、何が欲しい」と聞いてみると、まったく同じ答えが返ってきました。「自転車が欲しい」と言ったのです。

義足で長時間歩くのは私たちが想像する以上に大変だと言います。歩いていると切断された付け根と義足がこすれあい、だんだんと痛くなり、無理して歩くと泣き叫びたいぐらいの激痛が走るのです。彼女達は学校へ通うために大変な苦労を重ねていました。

中学校までは、かなりの距離があるので足を引きずりながら歩き、何度も休憩しながら時間をかけて登校しています。

自転車があれば学校に通うことも楽になる。もっと勉強が出来ると言っていました。町に行くことも出来る。「お願いだから自転車を買ってください。」と頼まれました。自転車が、これほど重要だとは思いもしませんでした。

すぐに自転車の購入資金の贈呈式を行いました。 右足を地雷で失った少女達が何度も「ありがとう」と言っていました。