児童労働とは・・・概ね15才未満の子どもたちが、十分な教育や成長の機会を与えられずに働くことをいいます。また、18才未満の子どもが心身の健康、安全、道徳を害するおそれのある労働に従事している場合は「最悪の形態の児童労働」といいます。
水汲みは子どもの仕事
ラオスの首都ヴィエンチャン中心部から車で3時間ほどのシエンレーター村へと向かう。この国の貧しさは深刻で、水道、電気などのインフラはまだ整備されていない。アスファルトで舗装された道は都市部や幹線道路の一部だけ、町を離れ田舎の村へ向かうと赤土がむき出しになった山道が続く、ホコリが舞立つデコボコ道は4輪駆動車でも通行が困難なことがある。ましてや普通乗用車などは使い物にならない。雨季に入るとさらにひどくなり4輪駆動車でも移動が不可能となる。
足を踏ん張り悪路に耐える。ホコリがもうもうと立ちこめ前が見えない。やっとの思いで村へ到着した時には踏ん張っていた両手両足の筋肉が悲鳴を上げていた。車から降りてキャッサバ畑を抜けると村の中心部に着いた。シエンレーター村は256世帯、人口2,100名の村です。元々、地元に住んでいるラオ族と北部からやって来たモン族の皆さんが共に暮らしている。部族の違いによる対立や差別は無いのだが貧富の差は大きい。昔から住んでいるラオ族は、れんが造りの二階建てで屋根はトタン葺き、一見すると立派に見える。一方のモン族の住まいは悲しいほど粗末。ほとんどが竹を地面に突き刺し、わらで壁と天井を覆っただけの家。中に入ると床はありません。電気も水道もガスも何もない。日本で言えば江戸時代の田舎の暮らしが現在も続いていると表現した方がわかりやすいかも知れない。
カメラを手にして村を調査していると、至る所から「カタンコトン」と音が聞こえて来た。「何の音だろう」と気になって調べて見ると、それは機織りの音でした。モン族の伝統的な織物は美しくあでやかで上品な素晴らしいものです。その布を織る音でした。しばし足を止め機織り作業を見ていた。そして、「美しい布だな」と出来上がった反物を見つめ感動していた。すると、ある事に気づいた。機織りをしている、ほとんどが少女達でした。地べたに座り糸を紡ぐ8歳ぐらいの女の子もいる。蚕のマユから糸を紡ぎ非常に細かい作業で一本一本の糸を拾い模様を組み立て機織り機で布にする。その作業を黙々と行う娘達がいた。
一人の娘に「学校へは行っているのですか」と聞いてみると悲しそうな笑みを浮かべながら「私は小さい頃から親を助けるために機織りをしています。勉強する事は出来ませんでした。だから文字の読み書きさえも出来ません」と答えました。学校に通う事が出来ない娘達は多い。この少女達は親を、家族を支えるために朝から晩まで働く。バタンバタンと布を織る。一つの反物を織るのに慣れた娘でも二週間はかかる。そして、出来上がった反物は華僑達に悲しいほど安い値段で買い取られる。一ヶ月、どんなに頑張って働いたとしても日本円にすると4,000円ぐらいの収入です。貧しさから抜け出す事は不可能だと言っても過言ではありません。
貧しさの中で暮らし、朝から晩まで働く娘達の表情は決して暗いわけではありませんでした。作業中は、どの子も真剣で近づきがたいのですが、休み時間に見せる屈託の無い笑顔は実に可愛らしく美しい。12歳ぐらいの少女にカメラを向けてシャッターを切った。「ありがとう」と握手を交わす。その手を握って驚いた。少女の手は柔らかな子どもの手ではなかった。糸を紡ぎ機を織る、その手は大人のように硬かった。
昨年、アジアチャイルドサポートが建設したナムチェン小学校の完成式典に、私たちの活動の噂を聞きつけて、とある中高一貫校の先生がわざわざ会いに来ていました。
「是非どうか、われわれの学校も見に来てください。900名もの生徒がぎゅうぎゅう詰めの状態で生活しているんです。でも、文句も言わずに一生懸命勉強しています。彼らは非常に熱心なのです。中には奨学金を獲得して日本の大学院まで卒業した優秀な子もいます。どうぞ、私たちの生徒たちも応援してください。」
まだ式典の途中だと言うのに今にも引っ張って連れて行きそうな勢いで訴えてきました。
この学校は、ラオスの首都ヴィエンチャン市の中心部から北に約70km行ったところにあります。ブワリエン先生の案内で校門を入って行くと、とても広い芝生の敷地内に、幾つも校舎や宿舎が立ち並んでいて一見立派な学校に思えました。1975年に創設され、内戦で親を失った子どもや、生活の厳しい山岳地帯に暮らす少数民族の子どもたち、貧困の為に子育てが出来ない家庭の子たちをラオス全土から集めて面倒をみる全寮制の学校だそうです。毎年、数百名もの応募があり、全員は入学できない位だとおっしゃっていました。タイ王室を始め、色々な団体からの支援を得て、少しずつ補修・増築等を行ってきているとのことです。何だ、大したこと無いんじゃないの?と思っていましたが、さらに話を伺っているうち、尋常ではない状況が見えてきました。
在校生は12歳~18歳までの7学年900名、開け放たれた教室の窓から、薄暗く狭い教室の中で一生懸命に勉強している彼らの姿がみえました。教科書は2~3人に1冊しかなく、宿題をするにも順番に教科書を使わなければならないそうです。
次に、寄宿舎を見に行きました。だだっ広い部屋に25名ずつが住んでいるそうです。一人当たり一畳分のスペースのみ、仕切りも無く雑魚寝をしているとのこと、プライベートは全くありません。トイレは100名あたり4つとのことでしたが築36年が経過し、老朽化して壊れ、満足に使える状態ではありません。その為、たいていの生徒は学校の敷地内の茂み等で用を足しているとのことでした。女生徒も同じ状況です。水浴びも、川の水を汲んで来てトイレの中で身体を洗っているとのこと、言葉が出ませんでした。
やがて午前中の授業が終わり、学生たちが次々に一つの建物の周りに集まりだしました。あれは何をしているのですか?と尋ねると、
「学生の食堂です。もうすぐ昼食の時間、今日始めての食事の時間です」
と、いわれました。何だか不思議な様子なので見に行くことにしました。食堂の中をのぞいてみると、がらんどうの建物の中に、テーブルが幾つも並び、各テーブルにバケツとお皿が一つずつ、大きな籠で覆われて置かれていました。
突然、カンカンカン・・・・・!と鐘が鳴らされ、一斉にあちこちのドアから学生たちが食堂になだれ込んで炊いたもち米を取り出し、傍らにあるお皿のおかずの汁を付けて食べたしました。立ったまま、黙々と食べていたかと思うと、2、3分後には食事を済ませてどんどんと食堂を出ていきます。見学していた私たちは、ただ呆然と見守るしかありませんでした。これが食事?!椅子は?お箸は?お皿は?もち米とおかず1皿が7、8人分・・・?1日2食なのに一回にたったこれだけ・・・???
聞くところによると、1人の生徒を養うためにひと月20万kip(およそ2,000円)、食費だけでいうと1食あたり20円しか国から予算が出ていないというのです。ラオスの政府も一生懸命改革に取り組んでいますが、まだまだ手が回らないのが現状だとおっしゃっていました。
そんな状況ですから、生きていくために自分たちで努力をするほかありません。高学年の生徒たちが中心となって農作物を育て、家畜を飼い、魚を養殖して給食の材料にし、余ったものは生徒が自由にできるシステムをとっているとのこと(低学年の子たちは学校の掃除等が役目)でした。この調子だとトイレの補修やゆったりしたお部屋の確保などが後回しになるのも仕方ありません。
フォンサラット先生を始め、ここで教鞭をとる教師の多くは、開校当時から勤めておられるそうで、今、何が一番必要ですか?と尋ねると、皆口々に、
「生徒と一緒にやっていくのが好きだ、自分は彼らの親代わりのように思っています。」「何と言ってもトイレが足りません。女子生徒が外で用を足したり、身体を洗ったりしなくても済むように、安心して暮らせるようにしてやりたいのです。」
とおっしゃっていました。学習環境も、食事の状態も、寄宿舎の環境もどれも非常に厳しいものがありますが、今回はまず、トイレ建設の支援をすることに決定致しました。
「日本も大変な時期に、こうやって現状を調査しに来てくれ、話を聴いてくれて感謝します。また、皆さんが支援したいものでき無く、私たちが一番必要とする物を選んで支援してくれる事が何より有り難く、感謝致します。トイレが完成した暁には、大切に使うことをお約束します」
と、おっしゃってくださいました。