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伝伝虫通信バックナンバー 通巻35号 ③
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東日本大震災から2年余・・・

日和山公園からみる石巻市

平成23年3月11日14時46分18秒、東北地方を襲った未曾有の大災害「東日本大震災」から2年が過ぎました。去った2月16日、17日の2日間にわたり、東京の支援者5名と一緒に宮城県石巻市荻浜を訪ねる「東日本大震災被災地から学び、復興を支援する研修ツアー」を開催しました。宮城県漁業協同組合代表監事の伏見さん、宮城県生活環境部萩浜支所の木村支所長に石巻市の中心部から牡鹿半島沿岸部にわたり、震災から2年後の様子を案内して頂きました。両氏とは漁業を再開するために必要不可欠な軽トラック(8台)の支援や、小学校を間借りして子どもたちを受け入れている保育園へテントや物置などの支援を通して知り合い交流を続けています。

石巻市の高台にある日和山公園からは、石巻市を一望することができます。瓦礫の撤去は大幅にすすめられているものの危険区域に指定され、工業施設以外の新しい建物を建てることができなくなりました。そのため建物のない沿岸部の更地が目の前に広がります。震災時、津波と大規模火災が沿岸部を襲ったため、多くの方がこの日和山公園に避難されたそうです。

海沿いにある佐須の浜では、多くの家屋が津波の被害に遭いました。仮設住宅で暮らしている方、別の土地へ移り住んだ方、さまざまな理由で減り続け、50世帯以上あった集落も現在残っているのは6世帯ほどです。集落のそばには穏やかな海が目の前に広がっていましたが、この景色も6mの防潮堤が建設予定となっているので見ることは出来なくなるそうです。津波から守るための防潮堤は必要ですが、海に寄り添い生きる人たちの日常の景観が失われる事にもなるため、意見が二分されるような問題として地元の方々に突きつけられています。

漁師たちの想い

萩浜の漁師のみなさんを支え、震災当時の様子や現在の想いを聞かせて頂きました。

震災当時、多くの漁師たちが大事な船を守るため、海に走り沖合いを目指しましたが、降り続ける雪に視界を奪われるなか、漂流物に行く手を阻まれ、航行不能となった船も少なくなかったそうです。実際に参加された方のなかにも、船が転覆し命からがら別の船に助けられた方がいらっしゃいました。

渡邊さん(漁師・50歳)

渡邊さん(漁師・50歳)

「震災の時、沖合に船を避難させながら、好きで続けてきた漁師の仕事が本当に嫌になりました。海に出るのも怖くて、これからどうすればいいのか悩み続けました。だけど沖合で仲間に助けられ、そんな仲間や家族に支えられながら、また漁師を続けています。

今でも海に出ると正直怖いです。地震が来たら、また津波に襲われるのかと思うと、あの時の恐怖がまだ心に残っています。

でも家族やこれから育つ若い世代の見本となるように頑張っています。震災後、漁協の萩浜支部長を1年ほど務めています。たくさんの方々からの支援に対して、どのように恩返ししたらいいのか、ずっと考えています。ただ物を返すのではなく、浜のみんなが元気になって笑顔を取り戻せるよう頑張っていきます」

伏見さん(宮城県漁業協同組合代表監事)

伏見さん(宮城県漁業協同組合代表監事)

「バリバリバリバリという家をなぎ倒す轟音とともにあっという間に、5m以上の津波に飲み込まれました。2度3度と波にもまれ、もう駄目だと思った時、流された家の上に乗り助かりました。あまりの寒さと恐怖で、夢の中のできごとのような錯覚のなか、役場のほうから子どもたちの叫び声が聞こえ耳に残りました。親戚の家近くに流れ着き、風呂の湯船に残ったぬるま湯をかぶり、子どもたちの居た役場に走りました。老人と子どもを中学校に、無事避難させることはできたのですが、あれほどの恐怖が襲ったこどもたちが心配でなりません。避難生活を過ごすなか、船のない、家もない、何もない。どうすればいいのか分からない。漁で使う浮きダルなどの道具が流されてきても拾う気にもなれませんでした。

そんな中、ボランティアでやって来た今どきの若い女の子たちが、ドロだらけになりながら頑張る姿に教えられました。人とのつながり、命の尊さ、人としての財産を頂きました。それから心が開け、何もないゼロからのスタートですが、自分たちの力ではいあがっていく決意をしました。子どもたちの将来のためにも1日でも早い復興を目指します。支援をして頂いた全国のみなさんに、育てた牡蠣を腹いっぱい食べてもらうことが、自分たちの恩返しです」

豊島さん(漁師・32歳)

豊島さん(漁師・32歳)

「わたしは、震災前は塾で講師をしていましたが、去年の4月に漁師になりました。

震災の時、凄まじい揺れのなか3階の窓から、向かいの商店の古い蔵が崩れているのを見て、とんでもない地震がきたと思いました。家を出て車で石巻にある塾に向かいましたが、どこも停電で信号も点いてなく、津波警報がでているのにも気づかず、渋滞している車の間を走らせていました。街へ向かう道は渋滞していましたが、海の近くにある塾への道は空いていたので、渋滞に巻き込まれずに進みました。この時点でも津波警報が出ている事は知りません。橋にさしかかった瞬間に津波が来て、橋の上に取り残されてしまいました。橋に上がるのが1秒でも遅れていたら、逆に下りてしまっていたらと、思い出すと今でも恐ろしくなります。

橋の上でも生きた心地がせず、3度目の津波の前には、潮が沖の方まで引き、消波ブロックの土が見えた瞬間、僕はもう終わりだなと思いました。それでもなんとか生き残ることができて地元に帰った時には、萩浜も大変な被害を受けていました。

震災後、父親が一人で漁師を続けていたのですが、生かされたと思っていた私は故郷萩浜の力になりたくて漁師になる決意をしました」

海の男たち

牡蠣の養殖場

農林水産省の発表によると、宮城県のカキ養殖施設は98%と、ほぼ全施設が被災したとされており、萩浜も例外ではありません。さまざな困難を乗り越えて、再開することができた牡蠣の養殖場を見学させて頂きました。

沖合に出て揺れる船上で、足を踏ん張り手すりを握り締める私たちを尻目に、胴長姿の男たちは、前に後ろに軽快に走り回ります。養殖ダルを引き上げ、種ガキを付着させたホタテ貝を見せてもらいました。萩浜では「世界の牡蠣王」と呼ばれた沖縄出身の宮城新昌さんが1925年に考案した垂下式養殖法で行われています。種付けされた牡蠣が成長すると重みで養殖ダルが沈みます。沈み具合を見極めて引き上げたタルには、成長した牡蠣がびっしりとついています。浜に戻り、水揚げしたての牡蠣をごちそうになりました。

焼牡き蠣、蒸し牡蠣、手早くむいて「お前はほんとに好きなんだな」と言いながら、俺たちの牡蠣はどうだと言わんばかりに、嬉しそうに差し出してきます。漁師たちの想いの詰まった牡蠣は、濃厚な味とともに自信に満ち溢れていました。

今回出会った漁師のみなさんは、2年が過ぎた今でもそれぞれ日々葛藤しながら暮らしています。

被災地では「復興するぞ」「絶対負けない」という言葉が随所に揚げられていました。風評被害や買い控えなど、まだまだ課題は残されていますが、今現在も復興への大きな壁に立ち向かい、子どもたちの未来のために戦い続けています。私たちも一緒になって想いを背負い続けていかなければなりません。アジアチャイルドサポートは、これからも被災者のみなさまに寄り添い支援を続けていきます。ご協力をよろしくお願いします。

海の男たち
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