2015年4月25日に起きた地震から1年が過ぎました。アジアチャイルドサポートは、地震直後の緊急支援をはじめ、食料支援や防水シート、衛生キットなど、被災された方々に必要とされる支援を続けてきました。
首都カトマンズから南西約10kmに位置するキルティプル市は、Kirti(栄光)Pur(都市)が名前の由来とされ、250年以上前に王宮のあった地域です。先住民族といわれるネワール族が多く暮らし、古い建造物と新しい建物が共存する落ち着いた静かな街です。しかし、同市のパンガでは、古い建物が多いということが災いし、そのほとんどが倒壊、多数の犠牲者が出てしまいました。
住む場所を失った人々は、家族や知人を亡くした悲しみを抱えながら、近くの畑や学校の敷地に仮設住宅を建てて暮らしています。しかし、休校が解除された学校や田植えのはじまる畑にいつまでも暮らすことは出来ません。かといって家のあった場所のガレキの山を取り除く術もなく、戻ることも出来ません。ネパール国としても混乱のなか、復興に向けた取り組みを行なっているのですが、道路や公共施設、歴史的建造物が優先され、民間の建物については、見通しも立っていません。
未だ地震被害の苦しみが続く声が届き、パンガのなかでも被害の大きい「ラック地区」、「マハボ地区」へ、食料や毛布、蚊帳などの救援物資の支援とガレキ撤去支援を開始しました。並行して、「ダタル地区」、「ディキョ地区」、「シクチェ地区」の3地区の調査を行ないました。現場では、地区の被害状況をとりまとめているグジェ・シンさんの案内で、道を塞ぐガレキの山を登り、完全に崩れ去った家や、縦に割ったように半分になった家、これ以上倒れるのを防ぐために棒で支えている家など、今にも崩れ落ちてしまいそうな建物の側を通り被害状況の確認を行ないました。
なかには、比較的新しく頑丈に造られ、被害の少ない家にそのまま暮らしている方もいましたが、ほとんどの方が仮設住宅で暮らしており、壁が半分しか残っていない家に防水シートを被せて住んでいる方もいました。
学校や段々畑に並ぶ仮設住宅は、ガレキから取り出した廃材やトタンで造られていて、狭い小屋の中に家族4、5人で暮らしています。
雨季には一日中、トタン屋根に打ちつける激しい雨音が鳴り、夏場の日中は暑さで中に居ることができません。氷点下近くまで気温の下がる冬の夜は、トタンの天井に張った霜が落ち、布団が濡れ、あまりの寒さに眠ることもできません。また、薪で火を焚くため、調理は小屋の外です。雨降りには満足に食事をつくることもできません。不安を抱えながら、これまでの日常とかけ離れた仮設住宅での厳しい生活に、皆疲れきっています。
チョーリ・マハルジャンさんは、「地震の時、わたしは家に居ませんでした。息子の家族と6人で暮らしていましたが、家が崩れて14歳の孫と7か月の孫、夫が亡くなりました。今は、息子夫婦と私の3人で仮設住宅に住んでいます。家の物は、全てガレキに埋もれてしまって取ることすら出来ません」と話し、仮設住宅の前で座り込んでいました。
今回、案内役を買って出てくれたグジェ・シンさん(40歳)は、建設業を営んでおり、現在はパンガの復興に懸命に取り組んでいます。地震のあった4月25日、学校に行く前で、友だちと自転車に乗って遊んでいる一人息子のバブ(男の子10歳)と奥さん、母親に、カトマンズに行ってくると言って家を出ました。途中、お店に立ち寄った時、凄まじく大きな揺れに遭いました。家族のことが心配になり走って家に戻ると、息子が崩れた建物の下敷きになっていました。ガレキをかき分け、なんとか崩れた建物の隙間に入り、名前を呼びかけると返答があり、「お父さんが来たから安心してね」と話しかけながら、必死になって救い出しました。病院へ向かう間も、「バブ、バブ」と名前を呼び続けましたが、頭から大量に出血しており、病院について30分程過ぎた頃、出血多量でこの世を去ってしまいました。
翌日、病院から息子を連れて帰り、亡くなられた多くの人たちと一緒に共同火葬することとなり、目の前が真っ暗になりました。あまりにも大きな悲しみに、しばらくは何も手につかず、生きる気力を失っていましたが、辛さを忘れように無我夢中で救援活動を行ないました。「まわりは地震で家族を亡くした人が大勢います。わたしも辛い思いをしましたが、もっと辛い思いをした人が大勢います。そんな人たちのため、これからの新しいパンガをつくります。みんなを笑顔に変えるため頑張ります」グジェ・シンさんの復興に懸ける強い思いを聞きました。
後日、3地区の代表者を交えて行なった会議では、シクチェ地区のサヌ・バイ・マハルジャン会長から「被災した住民は、今住んでいる畑や学校も、いつ出されるのか不安な生活をしています。自分たちの土地に安心して暮らすことが、復興への第一歩だと考えています。力を貸してください」との言葉を聞き、生活の拠点となる住居を確保することは、復興への最優先事項のひとつと判断。合計5地区のガレキ撤去支援の実施を決定。さっそく重機と運搬用トラックを手配し、作業を開始しました。山の様になったガレキを取り除き、重機の入れない入り組んだ路地のガレキは一輪車で運び出しました。半壊した建物を解体する際には、被害の無い家に影響が出ないよう、隣接した部分は人力で崩すなど、慎重に作業をすすめました。ガレキに埋もれていた家財道具は、ほとんどが使用できなくなっていましたが、建材として再利用できる木材やレンガは分別作業を行いました。また、バラバラに破損した木材も、震災後の燃料不足で、薪として使える貴重な資源となるので、同様に仕分けを行ないました。人の手を要する作業には、村のみなさんも率先して参加しました。
ダタル地区のヒラ・バハドゥル・マハルジャンさん「ガレキを片付けてくれたおかげで、やっと自分の土地で暮らす事ができます。今は、トタンの小屋しか建てられませんが、いつか元のような家を建てたいと考えています」
「日本からの支援をわたしたちは生涯忘れません。助けてくれた事を心から感謝しています。パンガだけではなく全ての市民がいつまでも覚えています」マハボ・ラック地区のプラサンタ・マハルジャン会長が、地区を代表して話してくれました。
「メイク・ニュー・パンガ/新しいパンガをつくる」グジェ・シンさんの言葉には、地震前に戻すだけではなく、それ以上の村にするという思いと強い決意を感じました。
必ず復興できると信じています。