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伝伝虫通信バックナンバー 通巻44号 ②
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ミャンマー・差別と偏見に打ち勝ち、生きる喜びとなった
 マヤンチャウンの縫製工場


16年前の「出会い」

マラリアが蔓延し、軍隊ですら敬遠していたマヤンチャウンの森。壮絶な差別を受けたハンセン病患者の人々が強制的に移住させられ、ひっそりと暮らしていました。
 2003年、現地で目の当たりにしたのは、腐った廃米を食べて生きなからえている痩せ細った無表情の人々の姿。即座に緊急食糧援助を行い、継続的な食糧支援、集団住宅改修工事や水道施設配備、重症患者用住宅建設、ハンセン病患者の子どもたちか通う小学校の大規模改修工事、医療支援をはじめとした様々な取り組みをしています。

私たちも仕事がしたい

きっかけは、2006年に当施設に逃げてきたレーレーウィンさん(当時30歳)。彼女は、ハンセン病だからと夫から激しい暴力を受けていました。目立つようになったお腹を蹴るようにまでなっていたそうです。
 「このままではお腹の子が死んでしまう」と思い、夜中にひとりで村を逃げ出しました。身重の身体でまる二日歩き続け、最後は這うようにしてやっとここに辿り着いたのです。施設の人たちはとても優しく面倒を見てくれました。
 体力が回復し、無事に出産を終えて安心して子育てができるようになった彼女は「たとえ体が不自由でも、ミシンの技術を学べば働くことができる。私たちに仕事をさせてください」と訴えてきました。施設の人々も彼女のその言葉にみな賛同していました。
 そこですぐにミシン40台を導入し、洋裁工場を始めました。
 先生役を立てて、皆で必死に習いました。両足に包帯を巻いている人も痛みをものともせずにペダルを踏み続けていました。
 ACSが発注した小学校へ寄贈する学生服を作る彼女たちの表情は働く喜びに満ち溢れていて、T心不乱に取り組む姿に胸が熱くなりました。

「良い仕事に就ける」

やがて噂が広まり、違う村に暮らす(ハンセン病患者ではない)女性たちも働きたいとやって来るようになりました。
 そこで、この縫製工場で働く条件として、「ハンセン病について正しい知識を学び、差別心や偏見を持たない」ということを徹底しました。その結果、彼女たちの理解が進み「ハンセン病はめったにうつらない、 薬でちゃんと治る病気で、怖がることはない」という意識が、彼女たちを通して周辺の村々にまで広がるようになりました。
 2010年、施設を取り囲んでいた鉄条網がついに取り払われ、ハンセン病を忌み嫌っていた人々までが交流しにくるようになりました。
 コツコツと洋裁作業に取り組み続けた彼女たちはなんと、これまでに5万5千着の小学生用の学生服を製作。

引き継がれる技術

ミシンの先生として尽力されたド・ミャイン・セィンさん(当時70代)は、若い頃に洋裁店を営んでいました。
 ハンセン病の合併症が原因で片足を失いましたが、残った足でミシンのペダルを踏みながら熱心に指導していました。
 6年前に他界されましたが、彼女の教えは、若い女性たちに確実に受け継がれています。


ス・ミャッさん22歳

「16歳のときに発症して18歳でこの施設に来ました。ミシンをはじめて1年になります。抹消神経に障害があるため、たまに手に痛みが出て力が入らず、他の人だちよりも仕事は遅くなったりしますが、ミシンの仕事は楽しいので、これからも続けていきたいです。そしていつかは結婚し家庭を持ちたいです」


ヤィン・ヤィン・ヌさん13歳

ここで産まれ育ちミシンを習い始めて3か月になります。手先が器用で覚えるのが早いと評判です。「みんなが優しく丁寧に教えてくれるので、どんどん上達していくことができています。ミシンの仕事をしているときがとても楽しいです。
ミシンの技術を字んで、町の工場で蜃きたいと思っています」


教わる側から教える立場ヘ
レーレーウィンさん43歳


「入所した当時のお腹の子は、立派に成長して私を助けてくれています。ここで出会った優しい旦那さんとの間に、2人目の子を授かりました。
 縫製工場が始まったころ、なんの技術もなく、手も少し不自由な私に、みんなが一生懸命に指導してくれました。あれから10年以上になります。
 今は教える立場となり、教わっていた時を思い出しながら、若い子たちを指導しています「みんなで一緒に仕事をすることが何よりの喜びです」
 かつて、差別を受け、のけ者にされていた人々が、たゆまぬ努力を重ねて、地域の意識を変え、周りから必要とされるようになったのです。本当に素晴らしいことですね!何事もくじけず、努力を続ける姿勢を見習いたいと心から思いま す。

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